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622 在日学徒義勇軍同志会中部連合会(軍人会)  年6月日午前4時分、北韓金日成は、韓半島の赤化統一の野欲をもって、突 然奇襲攻撃をかけ度線を侵攻した。  北韓共産主義集団の南侵の勢いは熾烈をきわめ、アッという間に大邱近くの洛東江まで 攻め込まれてしまった。これは奇襲攻撃に依る南侵の証である。  日本の新聞、放送、号外などで動乱の推移が報道されるたびに、祖国の危機を憂う愛国 青年は無念の思いととともに救国の情熱を燃え上がらせた。   年8月8日、民団中央本部に自願軍指導本部(本部長 金光男)を設置、同月 日に自願軍募集のための要項を全組織に通達した。  民団愛知でも、中央の指示にもとづき自願兵を募集、名の愛国青年が応募し埼玉県、 朝霞基地にある米軍第8軍第1騎兵師団第補充大隊に入隊した。  年9月日に第1陣名が、9月日に第2陣名が、9月日に第3陣 名が祖国の戦線に参入した。  在日自願兵のほとんどが米軍第7師団の第連隊、第連隊さらに米8軍第6補充部隊、 第部隊、第部隊、第化器中隊などに配属され、主に仁川上陸作戦、元山上陸作戦、 利原上陸作戦、ソウル奪還作戦、臨津江高浪浦作戦、首都再奪還作戦、水色地区作戦、鉄 原三角地作戦、東部江陵作戦に参加した。なお第化器中隊は米軍より感謝状をもらった。  戦闘は熾烈をきわめ激戦につぐ激戦、血で血を洗う同族相殺の悲劇が展開され、多くの 在日自願兵が戦死、または行方不明となった。  世紀の仁川上陸作戦の成功なくして、今日の韓国の発展はあり得なかった。この事実を 知る人は少ない。60年史は事実を記す日記ではなく、真実(こころ)を届ける手紙であ りたい。   国連軍と韓国軍の反撃によって北韓の野望は崩れ去ったが、年月中国の参戦に より戦線は再び一進一退の攻防戦が続いた。同年月日、国連の決定により度線ま で無条件撤退した。その後、前線から後退する米軍部隊とともに在日自願兵に対し、除隊 帰還令が出され、釜山の少林寺に自願兵は結集した。  一方、年サンフランシスコ講和条約が調印され、日本は主権を回復した。ところが、 当時韓日間には国交がなかったため、在日自願兵は日本入国を拒否されてしまった。  帰還を断念した在日自願兵の有志は年9月、ソウル市鍾路区に「在日韓僑学徒義勇隊」 を創立した。
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자료출처 : <a href=mindan-aichi.org/ target=_blank>민단 아이치</a>